教員免許の更新制度

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教員免許を持っているが、教職についていない人が多く、それを問題視する人の声も汲んだ結果教員免許の更新制度を設けようという動きがありました。
私も教員免許を持っているので、教職につけない事はありません。

教員免許制度
1949年に制定 教育職員免許法(教免法)に基づく教員の資格制度 教免法3条1項
  • 教育職員は、教育職員免許法により授与される免許状を有するものでなければならない普通免許状
  • 各分野の優れた知識経験や技能をもっている社会人に与えられる特別免許状
  • <普通免許状を有する者を採用することができない場合に限って授与することができる臨時免許状(有効期限3年)
教免法4条、5条参照
免許は終身有効になっています。

更新制度を設けている国はアメリカくらいで、イギリスやドイツなどでは日本と同じく終身有効のようです。

で、話は戻りますが、中央教育審議会では
・教員の適格性確保に置く場合
・教員の専門性向上に置く場合
この二点を目的として更新制度を検討しているようです。
この二点の問題点について、この場で意見は差し控えるとして絶対的な問題として
「教師の雇用問題」を切り離しているように見えるんですが――――

人間、食っていかなきゃならないので、教師の道を諦め他の職についた人やなりたくても教師になれなかった人も多く居る事でしょう。
教師の免許を持っている人が多すぎるという視点でのみ論じれば、歪みが出ますし、上の2点の目的のみに支店を置いて論じるのはそもそも論外です。

もちろん、私のように「取れる環境にあったから取った」と言う人も多く居ます。
私を含め、教師になる意欲が無い人の免許は更新性は有効でしょう。

私が教師に対する意欲が無いのは、父親が教師である事、姉が教師である事に起因します。
身近に教職の人間が居ると、教育現場の雰囲気や教師の視点や不満、私は教師ではないですが、学校の生徒であった経験があるので生徒の意見なども多少はわかります。
(ていうか、ほぼすべての日本人が学校の生徒の経験があるわけですが(^w^))

1.学生経験がある。
2.現場の教師の生の声を知っている。(姉)
3.現場の教師の監督者の生の声を知っている(父)
4.教師に必要な技術や心構えを理解している(資格所持)
5.教師ではない

以上の観点から、第三者としての視点を有しているだけでなく、現場の状況をかなり理解しているという評価するにはそれなりの情報を所持していると自負します。
以上の事から、更新について少し今回のことに触れてみます。

教師に関する意見は過去に数度軽く述べているので、割合させていただきます(そのうちまとめようかな)

まずこの二点。
1.教員の適格性確保に置く場合
2.教員の専門性向上に置く場合
教師の資格を有する教師では無い人間*1と現役教師を同列に扱ってはなりません。
2に関して、非教師と現役教師には大きな隔たりがある以上、同じようにはかることが出来ないからです。現役教師も更新が必要な場合は、2の部分は省略し、1の部分だけで十分でしょう。

「教師の適格性確保」とありますが、では逆に「生徒の適格性確保」はどうするのでしょうか?
教師と言うものを一定の枠に当て嵌める場合、感情が不安定な時期に居る学生に常に対処できるのでしょうか?
また、教師一人当たりで対応する生徒の数は適正なのでしょうか。

 はっきり申し上げれば、教師の数は過剰です。言い換えれば、教師はかなりの人数が余っています(潜在教師)
私立などは、学校運営を行う営利団体と変わらず、利益の為に教師の数を減らすところも存在します。
 学生もまた、「金を払っているんだ」という意識は少なからず存在し、「俺はお客様だぞ」と言う態度をあからさまに取る生徒も少なくは無いでしょう。私の学生時代ですら、そのような態度を取る生徒は2割ほど存在していました。

以上の観点より、免許を与えた後の適格性確保にいったい何の意味があるのでしょうか?
躾がなっていない子供の躾までを、教師が親に代わってやらなければならないのでしょうか?
少なくとも、教師は親ではありません。教師の仕事の範囲に“道徳”は存在しても“躾”は存在しません。
面白い事に、教育を行う上で論じられる前提に学生は「躾が出来ている子供である」
という事実が存在します。
これは、教師は生徒にいかなる事があっても「暴力を振るってはいけない」と言う項目と関連性があります。

学生は「勉強がしたいから学校に来る」と言う意識の元、学校に通う背景があります。
「義務教育」などの言葉がありますが、義務があるのは学生の親で子供にはありません。
親は子供に「教育を受けさせる義務を有する」のであって、子供は「教育を受ける権利を有する」のです。
子供が望まなければ、教育を受けさせる義務は親には無いのです。
 教育委員会中央教育審議会は、「子供は教育を受けなければならない」「子供は学校に行かなければならない」という、誤った認識を訂正せず、逆にそう言う風潮を率先して広めました。未だにそのような誤った認識を意図して訂正しようとしていないのが良い証明でしょう。
これには理由があります。子供に学校に行かなければならない、勉強しなければならないという強迫観念を植え付け、意図的に勉強をさせる効果があるからです。勉強が嫌いな子供が、本人の本意とは別に学校に登校するのが良い証拠でしょう。これらの
事実の善悪はここでは割合させていただきます。

制度では学生は「勉強がしたくてやってくる」という前提です。
実際は「義務だから、仕方が無いのでやってくる。みんなが行ってるから行っている」とい学生も多いです。
もちろん、勉強したくてやってきている学生も居るでしょう。しかし、大部分は「親に言われたから」程度です。
私の現役時代では、そのような意思でやってきている学生は居ませんでしたが。

勉強に対する姿勢が、制度と現実では大きく違うという部分だけ理解していただければ幸いです。

制度が要求し、最低限保障している「教育現場」とは
1.勉強したい意思を持っている。
2.勉強しなければならないと認識している。
以上の2点のうちどちらかの条件を満たした学生に対して、「教員の適格性」を満たし免許を所持する教師が教育を行う。

 そして、その「教育現場」を構築する義務を背負っているのが、「教育委員会
中央教育審議会」「PTA」「保護者会」「文部科学省(旧:文部省)」です。
しかし現状の教育現場で、制度の要求する現場を構築できているでしょうか?
結論は出来ていません。教育を受けようと意識している学生が大半を占める現場は、一部の進学校のさらにその一部のクラスのみでしょう。

 更新性と言うのも悪くは無いのですが、まずは現実と制度とのギャップをきちんと認識し、ちゃんと制度が要求する教育現場を構築するよう、関係組織に協力を仰ぎ、制度の要求する教育現場が実際の教育現場で構築されているかどうかの審査を行う必要があるのではないでしょうか。審査を行うのはもちろん、第三者機関か第三者関係者でなければなりませんが。

犯罪率が高いから刑罰を重くするような物です。
犯罪率が高いなら、まずは検挙率を上げることから始めなければ意味がありません。
現状の制度に疑問視するのは大切ですが、順番として制度がきちんと機能しているかどうかの考察のほうが重要だと私は思っています。

さて、次は先生の質ですが、現在は良いとはいえません。つーか、悪いです、かなり。
学校自体が利益団体として、利益を優先する方針にあるというのが一点。
PTAなどの保護者が教師を信用せず、また口うるさく言うため、教師が教育が出来ない環境になっている為、すでに教師がきょういきを行う事を放棄している現状が一点。
マスコミがうるさいのが一点(学校がメディアを恐れて、問題を大事にしたくないという方針)
教師自身が自分の身を守れないのが一点。
他にも色々ありますが―――

現在の教育者の多くは、「嵐は過ぎ去るのを黙って待っていればよい」として、生徒との対話を拒否しています。
対話をせずに信頼関係を構築することはできません。
というか、信頼関係を構築しようと努力している教師は確かに多くはありませんが居ます。
がんばっている先生は沢山居るのですが、それを良く思わない他の先生方からの圧力や、面倒を起こされるのを教頭からの嫌味、そして校長先生はそのような教師に対して悪い評価を下して教師としての道を潰す行動により、【良い教師の駆逐作業】という職場環境が出来上がっています。
結果としてがんばっている先生は孤立します。教頭や校長などの管理者の人達、及びPTAや教育委員会などが、そういった先生を適正に評価してあげれば現場の空気はぜんぜん違うのですが、現状は悪い評価を行う事はあっても、良い評価を行う事は稀になっています。そのような教師の職場環境が構築されている学校の学生は、そのような空気を感じ取り、勉学への意欲を失っていくことになります。
なめてはいけません。学生は感受性が高く、そのような大人のどろどろした部分を敏感に感じ取ります。

模範となる教師がそのような事では、生徒がついてこないのは道理です。
教師を使う側が、「変わりは他にも居る」と言う意識で学校運営を行い、教師を使い捨てにしている所も同様です。

適格性のある教師を排除しておいて、教師の免許の更新性を云々言っているわけです。
教育現場から適格性のある教師を追い出し、適格性の無いが教師が残るのは道理です。

*1:以後、非教師